こんにちは、kokokakuです。
みなさんは、ふとした瞬間に突然涙があふれ出すことってありますか?
しかも何の涙かわからないという・・・。
いつからでしょう。
大人になってから、なぜかある瞬間に涙が溢れだすようになりました。
最初は、夫が当直(以前、病院に勤務していた頃の話)で、ひとりで夕食を食べる時。
それもなぜか“ほっともっと”のチキン南蛮(大好物)を食べる時でした。
ひとりの時は、毎回ではないけれど、大好きな“ほっともっと”のチキン南蛮を買って食べるのを楽しみにしていたのです。
蓋をあけ、添付されたソースをかけて「いただきま~す」。
これこれ!
やっぱり美味しい~~♪
美味しい美味しいと夢中で頬張っていると・・・
あ、まただ・・・。
涙がこみ上げてきて、一気にあふれ出して泣き始めます。
ほっともっとのチキン南蛮に特別な思い出があるわけではないし、
ひとり寂しく食事をとるような子ども時代を過ごしたわけでもないのに。
イルカショー
イルカショーでも涙がこみ上げます。
近くに水族館があるので子どもを連れて何度もいきました。
開演前、音楽が流れだすと勢いづくイルカ。
はりきってワクワクしているように見えます。
「ほらほら、イルカさんはりきり始めたよ!
みんなに見てもらうのが嬉しいのかな?
トレーナーさんとの触れ合いが嬉しいのかな?
それともお魚もらえるからテンションが上がるのかな?」
ショーが始まります。
かわいいな~、
すごいな~、
と感心して見ていると、
あれれ?
急に涙が溢れだしそうになって、ちょっと気を引き締めます。
どうしてだろう、トレーナーさんの指示通りに無邪気に一生懸命芸を披露するイルカたちを見ていると、やっぱりどうしても涙がこみ上げてきます。
保育園
支援センターが保育園内にあったので、時々子どもを連れて行ってました。
園児の子たちに交じって活動させてもらう交流保育に参加した時、はりきっている子どもたちの中で、どうしてだろう、涙がこみ上げてきてグッと抑えていました。
何度も。
無垢でひたむき
またチキン南蛮を食べて涙がこみ上げてきた時、あることに気が付きました。
夕方のニュース、テレビには何かにひたむきな子どもたちの様子。
一瞬で何かがつながった気がしました。
ショーのイルカ、保育園の子ども、テレビの中の子ども・・・
みんな頑張ってる。
無垢な心で無邪気に一生懸命頑張っている。
でも・・・
でも、それが何なんだろう。
私はどうしてそれに反応してしまうのだろう。
それは子育てを通して少しずつわかっていきました。
イルカや子どもたちに自分を重ねていたのです。
無邪気に楽しそうに頑張っているように見えるけど、どこか悲しい。
どこかで無理してる(子がいる)。
もちろんみんながそうなのではありません。
イルカなんか特にわかりません。
だけどその中にきっと、本人は意識していないのだけど、取り残された何かがある、という子がいる。
小さい頃の私がそうだったのでした。
「なんともない」
感じたら一気に溢れそうな感情を閉じ込めて、「なんともない、なんともない」と感じないようにして過ごしていた。
そうするしかなかったから。
それ以外に選択肢なんて知らないから。
それは寂しさだったり、怖さだったり、悲しみだったり・・・
それに嫌だとか、自由にしたいとか、甘えたいとかも。
そのうちに、自分が本当は何を必要としているのか、自分はいったい何者なのか、わからなくなっていってました。
「自分には本当はコレが必要なんだ!」って主張できればいいけどできない。
それどころか、
自分のことより、誰かの指示や期待に応える自分を生きる世界が自分の居場所。
それに疑いがない。
私自身がそうだったのです。
イルカや子どもたちの姿に自分を重ねていたんだ。
本当は違うんだよ、わかって
って心が訴えて泣いていたんだ。
誰のため?何のため?
息子は小学2年生ですが、学校には行っていません。
入学しなかったのです。
ランドセルも買ってないし、入学式にも出ていません。
どうしてそうしているのかは、これからゆっくり記事にしていきたいと思っていますが、本人の気質や本人に湧いている正直な気持ち、反応と向き合った結果の選択です。
そんな、学校へ行かない選択をした息子と8年間過ごしてきて私は、
私のやることなすこと「誰のため?」「何のため?」という問いが何度となくつきつけられました。
ひたむきに頑張っているイルカや子どもたちの今は、「誰のため?」「何のため?」。
同じ問いが幼少期の私にも。
考えればどれも、「誰かのため」「期待に応えるため」「喜ばせるため」「承認欲求を満たすため」「愛情を得るため」・・・
もう本当の自分が何を求めているのかもわからないほど、自分を麻痺させているという現実に直面させられたのです。
本当は・・・
本当はどうしたいんだろう。
考えさせられることは今でもよくあります。
でも今は、イルカを見ても、ひたむきな子どもたちの姿を見ても涙は溢れなくなりました。
息子の『学校へ行かない選択』という大きな出来事を乗り越えるにあたって、自分の存在や意志を尊重していい、優先していいという概念が取り入れられたためだと思います。
何かを決めなければならない時、そこには“本当の自分”が求めるものと、誰かや社会が求めるものとにギャップがあることがよくあります。
世の中や誰かの“当たり前”に疑問を持つことを知らなかったために失ってきたもの、取り残されてきたものがある。
だからこそ、これからの自分や大切な家族のために、『疑問を持つこと』を歓迎したい。
誰かや社会が求めることに応じられない選択をするのは勇気がいるけれど、本当の自分らしい自分を取り戻すには避けて通れない時もある。
自分と家族にとって、本当に必要なことを納得して決めていこう。
最近あらためてそう思います。
さいごまでお読みくださりありがとうございました。
ー著書紹介ー
知らぬ間に受け継いだ「生きづらさの種」を取り除き、
本当の自分を取り戻す「読む子育てセラピー」本
『ママ、怒らないで。』を出版しています。